Sahara's WebLog

日記のような、備忘録のような、うらみつらみのような、自慢のような…。

Blithely Promulgating a Myth of Nuclear Safety.

以下、原子力の未来:破れた夢からの引用

そして日本も
 それから25年が経ち、「原子力ルネサンス」という声も聞かれ始めたころ、事故は再び起きた。
 日本のいわゆる「原子力村」を構成する官僚、政治家、産業界は、チェルノブイリの罪を負う人々のような崩壊しかけた独裁国家の機関員ではなかった。彼らには有権者や株主、社会に対する責任があった。
 それでも彼らは原子力を熱心に推進し、その熱意の陰に、貧弱な規制や機能しなかった安全システムの問題を覆い隠し、罪深くも地殻変動のリスクを無視した。その間ずっと、原子力の安全神話を軽率に唱え続けた。
 すべての民主主義国がこれほどお粗末なわけではない。しかし、原子力はどんどん、民主主義国のものではなくなろうとしている。

原子力村、ばっさり切り捨てられてます。
The Economist Newspaper Limited の記事の日本語訳です。
先日、バカな経済評論家の記事を書いて、まるで経済屋がみんなバカなようなことを書いたので気になっていましたが、バカな経済屋は日本だけのことのようで安心しました。
原文も引用しておきましょう。

Et tu, Japan
Then, 25 years later, when enough time had passed for some to be talking of a “nuclear renaissance”, it happened again. The bureaucrats, politicians and industrialists of what has been called Japan’s “nuclear village” were not unaccountable apparatchiks in a decaying authoritarian state like those that bore the guilt of Chernobyl; they had responsibilities to voters, to shareholders, to society. And still they allowed their enthusiasm for nuclear power to shelter weak regulation, safety systems that failed to work and a culpable ignorance of the tectonic risks the reactors faced, all the while blithely promulgating a myth of nuclear safety.
Not all democracies do things so poorly. But nuclear power is about to become less and less a creature of democracies.

Nuclear power The dream that failed
Not all democracies do things so poorly.
日本の民主主義が粗末なものだということに日本人が気づかなきゃならない時が来てるってことです。
当然、それに気づかせたくない連中もいっぱいいます。

ついでだから書いておきますが、「原子力村」の主要な構成員に「マスコミ」も含まれるんだからな、古舘伊知郎。

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Posted under: 社会


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